彦根城の歴史を少し調べました

市民会館解体問題に関連して、彦根城の歴史を少し調べてみました。

 

築城のことや、文化財関連のことは、あちこちに書かれていますから、そちらに興味のある方は、ご自身で興味が尽きるまで調べていただきたいと思います。私が調べたのは、余り口の端に上ったことのない話を拾い集めました。

 

彦根城の天守が今も残っていることについては、少しだけブログに書いたことがあります。http://blog.tujimariko.jp/?search=%C2%E7%B7%A8%BD%C5%BF%AE

 

そのことを、本会議で発言したときの原稿は次のとおりです。https://www.city.hikone.shiga.dbsr.jp/index.php/3030178?Template=doc-one-frame&VoiceType=onehit&DocumentID=892

 

大隈重信公が彦根にお越しになったときに、残すべき城郭であるとして明治天皇に奏上して、残ったというのです。これが、1つ目の奇跡。

 

そして、1945年8月15日に2つ目の奇跡が起きたことを知りました。

 

この日正午の終戦の詔勅によって、その日の夜に行われる予定だった彦根市の夜間爆撃が中止になったということです。

 

これら2つの奇跡が起きていなければ、今の優美な彦根城天守は残っていなかったでしょう。

 

これが、今日調べたことの1つです。

 

そして、市民会館跡地にあった武家屋敷に関連して調べてみましたら、多くの城下町で武家屋敷が残っているとされるものの多くが、いわゆる足軽屋敷・足軽長屋などの建物であって、その点は彦根も同様であるといえることです。しかも、「武家屋敷」をウィキペディアで調べてみましても、そこには「彦根」に武家屋敷(足軽屋敷を含む)が残っているというようには書かれていません。多くの足軽組屋敷が市の文化財に指定されているのもかかわらず、です。広報宣伝が足りないのか、筆者に彦根城下には武家屋敷がないものとの認識が広がっているからかも知れません。

 

それにしても、中級武士の屋敷はそれほど残っていないことも同時に明らかになりました。

 

たぶん、昭和39年当時は、今と違って文化財に対する考え方も少なく、それよりも戦後復興のためにと埋蔵文化財の調査もそこそこに済ませていたのではないかと思います。

 

そうであれば、少なくとも一団の土地の中に武家屋敷が複数棟存在したことは古図からも明らかなわけですから、文化財行政の立場からも、そして何より市長が推進している彦根城の世界遺産登録推進の立場からも、発掘調査を進めるべきではないでしょうか。

 

確かに、「市民会館建設のため」借り受けている土地ですから、地権者にお返しするのは当然です。しかし、地権者にすべてを委ねてしまうのではなく、市の方から積極的に彦根市の成り立ちに関わる調査をするべきではないでしょうか。

 

姫路市では、2017年にマンション建設現場の発掘調査で、遺構が確認されたということが発表されました。この調査は文化財保護法で定められている埋蔵文化財の調査(費用は事業者の負担ですが、開発事業に必須のプロセス)であるにしても、次に地権者が建築行為をする際には必ず必要になるものですから、市が積極的に保存を要する土地であるのかどうかについて、調査すべきではないでしょうか。

 

今では、既に建設工事で破却されているかも知れませんし、今回の解体工事によって、更に破却されることがあるかも知れません。

 

市長の「文化財」に対する考え方が試されることになるかも知れません。そして何より、全国あるいは世界中の歴史学者からの非難に耐えうるだけの理論武装がされているのでしょうか。

 

破却されてしまってからでは、取り返しがつかないことだと思います。

 

 


なぜ、一般質問当日の朝にブログを更新したのか

9月15日の朝、「市民会館敷地は、江戸時代はどのような土地だったのか?」という記事を書き込んだのかということを考えて下さい。

 

私は、発言通告書を提出した直後(火曜日)に通告内容をブログにアップしています。

 

それは、多くの読者の皆さんにどのような質問をするのかということを知っていただきたいから掲載しているのです。議会のHPにも掲載されますが、多くの場合、金曜日にしか掲載されないからです。もしも、質問事項について興味を持っていただいている読者がおられるなら、事前に周辺情報を入手していただき、予備知識を持っていただくためにブログに掲載しているのです。

 

理事者の中にはこのブログを読んで下さっている方もおられるように思います。どのような思いで質問をするのかということを知っていただきたいという意味もあるのです。

 

私は虚偽答弁をしないで欲しいと常に願っています。国会での答弁が「ご飯論法」という批判や、「信号無視答弁」などと揶揄されることがあるように、そのような不誠実な答弁は市民に向き合っていないからだと思うからです。

 

9月定例会も連休が終われば前半の最終コーナーです。

 

市民に向き合った真剣な議論を常に行いたいと思っています。

 

 

 

 

 


業務委託・指定管理

「業務委託」「指定管理」や、あげくは「PFI」など、「民間活力の活用」という言葉が躍った時代がありました。

 

同級生が放課後児童クラブの担当をしていたことがありました。当時は、すべての放課後児童クラブが直営だったと記憶します。市内に17校の小学校があります。そのそれぞれに放課後児童クラブがあり、それぞれに主任指導員を配置して、人数に応じて指導員を確保する必要があります。しかも、児童の特性に応じて「加配」といって、指導員を上乗せして配置しなければならないケースもあります。

 

指導員も病気をしたり、急用ができて、「明日、休みます」ということも出てきます。その場合には、配置しなければならない指導員の補充が必要になります。すると、「休み」の予定だった指導員に連絡をとって、代わりに出て貰えないかどうかをお願いすることになります。もちろん、代わりの指導員についての労働時間との関係もありますから、補充自体は将棋の駒を手持ちの駒から持ってくるだけで済まないこともあるでしょう。

 

当時は、指導員の人件費の計算についても市役所側がしていましたから、17校に(規模の大小はありますが)15人の指導員(交代要員を含めれば、もっとだったかも知れませんが)がいたとして、250人程度の勤務時間の積み上げ、個別の指導員ごとの給与計算をしていたわけです。

 

しかし、途中から一部が民間委託に移行し、現在はすべてが民間に業務委託されています。そのことによって、指導員の確保も、給与計算からも、市役所側は解放されたことになります。

 

しかし、当時であっても個別の指導員の勤務時間の毎日の勤務状況は現場でなければ把握出来ませんから、日報作成までは各クラブの主任指導員などが処理をしていたことになります。ですから、すべてを民間委託したことによって市役所側の仕事の量がどれだけ減ったのかというのは、算出しづらいところではありました。

 

けれども、このような事務処理だけではなく、補充しなければならない指導員の確保など、精神的な負担を伴う仕事については、大きく解放されたことは間違いありません。

 

そうすると、それまでこれらの業務を担っていた職員はどのようになったのでしょう。同じように放課後児童クラブを担当する部署にいたとすれば、業務量は減ったはずですから、「何をするのか」、理事者側からすれば「何をさせるのか」を明確に指示しておく必要があります。

 

それは、それぞれのクラブの次年度以降の児童定員の見込みを計算したり、もっと言えば、業務委託先に対して、どのようなクラブ運営が児童たちにとって、あるいは保護者にとって最適なのかという建設的な構想づくりなどを指示しておくべきではないでしょうか。

 

今は、各クラブの運営については事業者任せです。コロナでの持続化給付金事業について国会で取り上げられたように、委託先の仕事の中身が見えていないとして、「丸投げ」の批判が相次いだことを思い出さざるを得ません。

 

その結果、直営だったときの関連経費と現在の関連経費とをしっかりと比較して、どれだけ経費が増加した(こまごまとした事務処理経費は上乗せされたとしても)のかを検証しなければ、費用が増加し、市役所側の軽くなった作業によって、建設的な事務作業(システムの構想策定などの部分)がどれだけ充実したのかなどは、計りきれない部分があるのですが、結果として経費増だけに陥ったということになっていないでしょうか。

 

彦根城の管理についても同様です。コロナで入城者数が極端に減少したことから、一定数の入城者数の数値目標を超えた場合に支払う必要のあった報奨金の支払いは免れるのでしょうが、管理業務についての議案において、現有の作業員などの他に城山管理事務所に駐在していた職員の人件費を加えた額も加算したときに、明確な経費削減効果があるとは認定できなかったのではないかと記憶します。

 

「民間活力導入」や「民間のノウハウの活用」など、言葉の上での美辞麗句だけで終わっていて、では余剰となった人員の部分が、本当に減少して、経費削減効果が発揮されたのかどうかにまで、正面から向き合った議論ができたのか、いまだに忸怩たる思いが残っています。

 

先日の本会議で、質問の方向性は違ったものの、外部委託や指定管理がどれだけあるのかという質問が中川議員からありました。かなりの部分で直営事業が減少していることが明らかになりました。

 

しかし、現実には、多くの現場の職員はそのまま業務委託や指定管理の先へ移籍して、同じ業務についているのが現実です。勤務形態(雇用形態・給与形態)の問題は措くとしても、結局、働く人たちにしてみれば、雇用主が替わって、いわゆる非正規雇用の枠組み自体が変わる訳ではありません。

 

一方、自治体の職員数は条例で上限が決められていることから、非正規職員(令和2年度からは会計年度任用職員と呼び方は変わり、一部手当が増加するなどの効果はありました)が増加する傾向であることは否めません。

 

「働き方改革」という呼び方で、更にはコロナの影響で、サテライト勤務と呼ぶように、折角本庁舎でワンストップサービスに持っていこうとしている方向性と違った形が整えられようとしています。

 

先日、大久保市長は「お待たせしない」ことが大切だと発言していましたが、サテライト勤務が増加することと、「お待たせしない」こととの整合性が取れているのでしょうか。

 

しかも、何かと言うと「コンサルタントや顧問の意見」と、本来なら「幹部職員が考えるべき部分」すらも外部に委ねてしまっているようにも感じます。

 

幹部職員が考えることを放棄してしまえば、「彦根の町を充分に(歴史的にも、経済的にも)知っている思考」が活かせなくなってしまいます。

 

業務委託や指定管理は基本的に複数年契約です。先々何年かは固定的に経費を先食いしてしまっていて、しかも終了年度が異なることから、財政状況を考えたときに、有効な改善策立案に支障を来す可能性を排除できません。

 

小さな政府か大きな政府かという問題だと思うのですが、限られた財源、限られた人材の中で、どのような進め方が最善かという建設的な議論が、今こそ求められているのではないでしょうか。

 

 

 

 


武家屋敷復元計画について

9月19日のしが彦根新聞に9月定例会の個人質問などの記事が掲載されました。

 

私の登壇は火曜日(15日)でしたので、先日(7日?)に発売された週刊ポストの記事についての情報が入手できていませんでしたが、その記事によれば、テレビでもお馴染みの千田嘉弘奈良大学教授が、「復元的整備」という言葉を用いて、「実物に限りなく近いもの」も歓迎すべきだと述べられています。

 

市長は、「武家屋敷を整備するには忠実に復元する必要があるが、詳細な資料が残っていないため整備は困難だ」と答弁しました。

 

一方で、現在の桜場駐車場(特別史跡内)は以前の玄宮園の一部であったことから、庭園を復元したいようです。

 

玄宮園も武家屋敷も、いずれも大名・武士の暮らしの中で日々形が変わっていたはずで、「何をもって忠実」な復元なのかは明らかではありません。

 

前にも書きましたが、市長が世界遺産登録を目指す「目的」が明らかでないことが問題なのです。

 

「世界遺産に登録することだけ」が目的だとすれば、それは違うと思います。

 

日本中に数ある城下町ですが、本当の大名家の生きてきた場を示してこそ、衆目を集めることができ、その場に立つことで自動車もインターネットもなかった時代の職住近接の暮らしを見てもらうことに繋がるのだと思います。

 

井伊直弼公が桜田門外の変で斬首されたことが城下に届いたのは数日後であったとされています。そして、その報を受けて多分武家屋敷に住んでいた家臣たちは取るものも取りあえず、大急ぎで登城したのでしょう。まさに、職住近接です。

 

江戸で起きていたことも、その後の処理方法も事情の分からないままに450km離れた彦根との情報伝達がどのようにされたのかという点も興味が湧くことでしょう。

 

歴史を知りたい人々には、そのような色々な興味の源泉が目の前に現れるとすれば、それに勝ることはないのではないでしょうか。

 

何をもって歴史に「忠実」なのか、そして文化庁の方針転換の中で、変えてもよいものと変えてはならないものとをしっかりと考える必要があるのではないでしょうか。

 

 

 


世界遺産登録に関係して

9月定例会再開初日に出ていた答弁が気になりましたので、書き残しておきます。

 

再開初日、14日に公政会の代表質問の中で、世界遺産登録に関して、次のような質問がありました。

 

「城内施設の移転はどうなるのか」

 

これに対する答弁は

「 国内推薦までに方針決定をしてもらう」というものでした。

 

かつてこの問題は大きなうねりとなって東京に波及しました。

 

つまり、校舎の耐震化問題が出てきた時に、2001年11月20日に文化庁に対し、「移転に反対する要望書」を東京金亀会会長から提出されました。なぜ、そうなったのかというのは、1983年に彦根市教育委員会が策定した彦根城の「保存管理計画」や、1992年の「整備基本計画」において、「地方裁判所、滋賀大学体育館、彦根東高等学校などの公共施設にあっても、史跡地以外への移転について全国的に進展を見ている状況を充分に認識し、適地を選定してその実現に向って関係機関が努力するものとする」という計画があったからです。

 

これについて、2005年7月7日の東京金亀会総会において、緊急動議が提出され、「現地改築」を全会一致で議決したのです。この総会には現役国会議員4人も出席していたとのことです。(以上、東京金亀会100周年記念誌より抜粋)

 

しかしながら、結果として「改築」は許されず、耐震化工事(2015年3月完成)にとどまったわけですが、一方で木造棟が新築(2013年3月)されています。

 

さて、この情報が東京に流れますと、必ずや大きな反発の動きが出てきそうです。

 

20200721101

 

 

20200918001

 

 

この問題は非常にセンシティブな問題で、江戸時代の藩校の流れを汲む高校はどこにあるべきかということに収斂するのでしょう。しかも、県立高校であり、文化財行政に関わるのも同じく県であるわけで、担当する県の職員の皆さんは悩まれることでしょう。

 

 

 

 



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