百済寺の損傷

NHKの朝の連続ドラマのリハーサルで、百済寺(東近江市)の本堂の廊下(濡縁)を破損させる事態が生じました。この本堂は重要文化財に指定されています。

 

事前の確認がどの程度されていたのかは不明ですが、このことは映画のロケ地として脚光を浴びている国宝・彦根城も他人事としておくわけにはいきません。

 

もちろん、彦根城も災害で塀が壊れたり、石垣が崩落したりしたこともありますが、人為的な原因である今回の事故は予測可能なものではないでしょうか。

 

文化財を守ることは、歴史を紡ぐ責任のある私たちに課せられた使命でもあります。そのことを心して、文化財の利活用を図りたいものです。

 

 

 

 


彦根城について考える

今、彦根城は「彦根市」の財産です。

 

なぜ、「彦根市」の財産になったのか、今一度、考えてみました。

 

彦根城は天下普請として工事がはじまり、膳所城、長浜城などの部材を利用して、建築されました。2期工事が完成した慶長11(1606)年を築城年数の始まりとしていますが、御殿(現彦根城博物館)の完成したのは元和8(1622)年で、今年で400年になります。

 

明治初年に廃城令が出たにもかかわらず、なぜ残ったのかについては、本会議でも発言したことがあります。http://blog.tujimariko.jp/?eid=1335465

 

さて、この彦根城を300年以上にわたって所有・管理してきたのは井伊家です。その彦根城を彦根市に寄附してもらいたいと願い出たのは昭和17年のことです。https://www.city.hikone.shiga.dbsr.jp/index.php/9386069?Template=doc-one-frame&VoiceType=onehit&VoiceID=122232

 

そして、当時の当主・井伊直忠氏の決断によって、昭和19年2月に彦根市に寄附されたのです。

 

これが、もしも個人所有のままであったとしたら、昭和21年の財産税法https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A1%E7%94%A3%E7%A8%8E%E6%B3%95

によって莫大な税金が課せられ、どのようになっていたのか分かりません。

 

個人の土地などでも、「どこそこの土地は、何があっても処分することなかれ」と厳命されることもあるように、そのような気持ちがあったとすれば、彦根城は残っていなかったかも知れません。

 

そういう意味で、「現在は」彦根市の所有であったとしても、300年以上にわたって維持してきたのだという自負があって当然だと思います。だからこそ、「市民の財産」であるのせよ、このような歴史的事実を無視してしまってよいということにはならないはずです。

 

今一度、このことを踏まえて、彦根城を考える必要があるのではないでしょうか。


博物館友の会総会

5月29日。清凉寺で彦根城博物館友の会の総会が開かれ、出席いたしました。

 

同級生のTさんが受け付けを、ご主人が司会をされ、東京から戻ってこられた後、彦根市の文化のために頑張っていただいています。感謝です。

 

席がお隣だった方とお話しをしました。Aさんとしておきます。

 

Aさんは、東京からお越しになった方で、ご主人が伊藤忠商事に勤務され、世界中あちこちで海外勤務をされ、ご一緒されたそうです。神宮球場のバックネット下に、「ひとりの商人 無数の使命」というコーポレート・メッセージが書かれていますが、そのことが社員一人ひとりに染みついているようでした。

 

江戸時代、近江商人は井伊家に対して莫大な支援をしていたこと、もちろん時代が下がっても伊藤忠商事が豊郷小学校を寄附したことなど、近江商人が社会に貢献したことは枚挙にいとまがありません。

 

Aさんは10年前に友の会に入会され、ようやく彦根城博物館を訪れる機会を得て、同時に伊藤忠兵衛記念館https://www.itochu.co.jp/ja/about/history/memorial.htmlを見学したいと、来られたとのことでした。ところが、残念なことに、博物館友の会の総会・講演会が午後3時30分までで、その後、皆でお話しをしていたため、記念館の閉館時刻には間に合わないので、改めて訪問することにされました。

 

そこで、市内で訪れたい店に車でご案内しましたが、こちらも閉店でしたので、彦根駅まで送り届けてお別れをいたしました。

 

社員が退職した後も、その奥様が会社の歴史を知るために縁の地を訪れたいと思わせる会社の持つ素晴らしい引力に、歴史ある会社の底力を感じました。

 

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ラジオ体操

5月16日午後。和田市長と天守で健康づくりをする会代表との会談が持たれました。

 

これに先立つ3月頃から、報道機関に城内でのラジオ体操についての記事が取り上げられ、会談の直前にはテレビのワイドショーでも取り上げられたとのことです。

 

事の発端は昨年3月の市民産業建設常任委員会にまで遡ります。M議員がこの問題を取り上げ、文化財課は今回の市長の出した結論に沿った答弁が示されています。

 

しかし、世界遺産登録を推進する姿勢を明確にしていた大久保前市長はこの問題に取り組まず、有耶無耶なままにしてきました。

 

 

今日からは施錠管理が厳しくなり、ラジオ体操は二の丸駐車場で行われることになりました。中日新聞の報道では、金亀公園での実施をお願いしているようで、時間外とはいえ、駐車場でのラジオ体操についても止めてほしいようです。

 

今朝の二の丸駐車場の写真です。報道関係も数社来ていました。

 

 

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まちづくりの原点

滋賀県には国宝や重要文化財がたくさんあります。

 

国宝や重要文化財には2つの分類があり、美術工芸品と建造物です。美術工芸品の数は圧倒的に東京都に多くあります。それは所蔵している美術館などが多いからです。そういう意味では、国宝・彦根屏風が彦根城博物館に所蔵されている意味は「地方」にある重要な意味があります。

 

では、建造物はというと、それは持ち運べないからこそ大切なわけで、「地域に密着した文化財」そのものです。

 

彦根市には1件2棟の国宝建造物(彦根城天守附櫓と多聞櫓)と8件12棟の重要文化財建造物があります。更に、この他にも県や市の指定登録文化財が数多くあり、近年は足軽組屋敷をはじめとして、市指定の登録文化財が増えています。これは他市でも同様で、「文化財」に対する認識が変わってきたことの証拠であるのではないかと考えています。

 

まちのアイデンティティとしての文化財だということになりますが、では、その保存という観点からすると、些か寂しい感じがするのは私だけでしょうか。

 

「文化財指定」をしただけで行政が役割を果たしたことになるのでしょうか。継続して保護活動をしていくからこそ、そのまちに住む人たちに「誇り」を持ち続けてもらえるのではないでしょうか。

 

「暮らしに根付いた」財産だからこそ、大切に保存していくことが重要なのです。

 

人工物はどこかで朽ちていく宿命を背負っています。それを「保存」「活用」していくことまで見据えて文化財指定をしなければならないと思うのです。

 

そうであるならば、常に利害が相対立するのが開発と保存(保護)の視点です。この利害調整は高度な政治判断が求められる場面であって、担当部署の判断だけであってはならない筈です。

 

私が撮り溜めたこれらの文化財建造物の写真です。

 

【個人所有の重要文化財建造物(有川家住宅)】

 

 

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【宗教法人所有の県指定文化財建造物(長久寺観音堂)】

 

 

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【個人所有の市指定文化財建造物(旧池田屋敷長屋門)】

 

 

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【市所有の市指定文化財建造物(金亀会館)】

 

 

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【個人所有の登録文化財建造物(中村家商家保存館)】

 

 

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【個人所有の登録文化財建物(宇水理髪店店舗)】

 

 

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(店舗前面最上部のバリカンのレリーフ)

 

 

【個人所有の登録文化財建造物(志賀谷家住宅主屋<本町宿>)】

 

 

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【NPO法人所有の登録文化財建造物(スミス記念堂<旧須美壽記念禮拜堂>)】

 

 

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【信用金庫所有の登録文化財建造物(滋賀中央信用金庫銀座支店店舗)】

 

 

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【鉄道会社所有の登録文化財建造物(近江鉄道鳥居本駅舎)】

 

 

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ちょっと探しただけでも、これだけあります。

 

歴史を活かすことの大切さを実感します。文化財を生かすも殺すも、行政が大きく関わるべき立場であることは間違いありません。

 

 

 

 

 

 


文化財行政のあり方

以前、都市計画に関わったあと、文化財にも関わった市職員の方と話したことがあります。

 

都市計画の部署というのは、「これからの町」の作り手です。「これから」を作るためには「これまで」とどう向き合うかを考える必要があります。

 

その職員は、昨日までと今日からの立場の違いに混乱したと言うのです。「壊す」側と「残す」側です。

 

彦根市は、足軽組屋敷がいくつも存在し、いくつかの中級武士の屋敷跡の場所も明らかになっています。そして、足軽組屋敷はそれぞれに「彦根市の指定文化財」として保存・保護の対象となっています。

 

これは「文化財の保護」という意味での施策です。そして、その延長に「世界遺産登録」があるのではないでしょうか。

 

「世界遺産登録」の意味を改めて考える必要があります。「登録」に必要なことは、保全された「実物」がそこに存在することだと思います。「そこに『存在した』」というものではなく、現実的にそこに「存在する」ことが重要なはずです。

 

2017年10月にNHKおはよう日本の中で、ウイーン(町全体が世界遺産)の高層マンション計画について触れていました。http://blog.tujimariko.jp/?eid=1334705

 

その中で、ユネスコから建設計画がすすむようであれば、世界遺産登録から抹消することもあり得るとの勧告があったことが紹介されました。同時に、ドイツのドレスデンのエルベ渓谷が川に架橋したことで登録が抹消されたことの紹介もありました。

 

これが世界のスタンダードなのです。

 

今回、新ごみ処理施設候補地への搬入路について、新たに市道大藪金田線を延長して、荒神山にトンネルを作って、稲村山農道とを繋ぐ構想が出てきました。

 

荒神山には山頂近くに前方後円墳があります。もしかして、トンネル予定地となるべき箇所を含めて、山全体が遺跡であることもあり得ます。これは文化財の事前調査の結果を待つ必要がありますが、文化財と開発とのせめぎ合いに発展することも考えられます。

 

以前、切通口御門跡の発掘現場の観察会に参加したことがあります。http://blog.tujimariko.jp/?eid=1334525

http://blog.tujimariko.jp/?eid=1334260

 

その時に、文化財担当の職員から、このような礎石が見つかっているのは、江戸と彦根だけだという報告を聞きました。

 

 

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この遺跡を「見える」化することも大切だという意見を新聞記者からも聞きました。

 

そこで、考える必要があるのが、市役所の組織です。今年の3月までは教育委員会の中に「文化財部」がありました。しかし、2月定例会で事務分掌条例改正が提案され、組織の変更が行われました。今にして思えば、この組織の変更によって「文化財部」がなくなり、「都市建設部」が「歴史まちづくり部」の中の「文化財課」へと変わったことを、獅山議員とともに反対すべきだったと反省しています。

 

それは、切通口の問題を例にとれば分かって貰えると思います。国体のために、立花町の市道の拡幅は必要であり、その拡幅部分に御門の礎石がある。新聞記者が言っていましたように、スケルトンで歩道下に保存するのかどうかの議論がどのようにして行われるのか、ということです。歴史まちづくり部の内部での話になってしまいます。そこでの「結論」を部長会議などへ持っていく必要があります。

 

しかし、従来のように、「文化財部」と「都市建設部」という別の部署での話であれば、結論は部長会議に委ねられることになったはずです。そして、そこでは市長の「町のあり方」の考えが試される筈だったのではないでしょうか。もちろん、そのような議論なしに市長が決定を下すおそれがないとは言えませんが、本来、そのような大きな問題(文化財行政のあり方)では、市長の持つ「町のあるべき姿(町の将来像)」が開陳されなければ嘘であり、そのことが世界遺産登録との関連でどのようなスタンスであるのかが試されるはずです。

 

このような意味から、文化財行政をもう一度見直すべきではないかと考えます。

 

 

 


彦根城の歴史を少し調べました

市民会館解体問題に関連して、彦根城の歴史を少し調べてみました。

 

築城のことや、文化財関連のことは、あちこちに書かれていますから、そちらに興味のある方は、ご自身で興味が尽きるまで調べていただきたいと思います。私が調べたのは、余り口の端に上ったことのない話を拾い集めました。

 

彦根城の天守が今も残っていることについては、少しだけブログに書いたことがあります。http://blog.tujimariko.jp/?search=%C2%E7%B7%A8%BD%C5%BF%AE

 

そのことを、本会議で発言したときの原稿は次のとおりです。https://www.city.hikone.shiga.dbsr.jp/index.php/3030178?Template=doc-one-frame&VoiceType=onehit&DocumentID=892

 

大隈重信公が彦根にお越しになったときに、残すべき城郭であるとして明治天皇に奏上して、残ったというのです。これが、1つ目の奇跡。

 

そして、1945年8月15日に2つ目の奇跡が起きたことを知りました。

 

この日正午の終戦の詔勅によって、その日の夜に行われる予定だった彦根市の夜間爆撃が中止になったということです。

 

これら2つの奇跡が起きていなければ、今の優美な彦根城天守は残っていなかったでしょう。

 

これが、今日調べたことの1つです。

 

そして、市民会館跡地にあった武家屋敷に関連して調べてみましたら、多くの城下町で武家屋敷が残っているとされるものの多くが、いわゆる足軽屋敷・足軽長屋などの建物であって、その点は彦根も同様であるといえることです。しかも、「武家屋敷」をウィキペディアで調べてみましても、そこには「彦根」に武家屋敷(足軽屋敷を含む)が残っているというようには書かれていません。多くの足軽組屋敷が市の文化財に指定されているのもかかわらず、です。広報宣伝が足りないのか、筆者に彦根城下には武家屋敷がないものとの認識が広がっているからかも知れません。

 

それにしても、中級武士の屋敷はそれほど残っていないことも同時に明らかになりました。

 

たぶん、昭和39年当時は、今と違って文化財に対する考え方も少なく、それよりも戦後復興のためにと埋蔵文化財の調査もそこそこに済ませていたのではないかと思います。

 

そうであれば、少なくとも一団の土地の中に武家屋敷が複数棟存在したことは古図からも明らかなわけですから、文化財行政の立場からも、そして何より市長が推進している彦根城の世界遺産登録推進の立場からも、発掘調査を進めるべきではないでしょうか。

 

確かに、「市民会館建設のため」借り受けている土地ですから、地権者にお返しするのは当然です。しかし、地権者にすべてを委ねてしまうのではなく、市の方から積極的に彦根市の成り立ちに関わる調査をするべきではないでしょうか。

 

姫路市では、2017年にマンション建設現場の発掘調査で、遺構が確認されたということが発表されました。この調査は文化財保護法で定められている埋蔵文化財の調査(費用は事業者の負担ですが、開発事業に必須のプロセス)であるにしても、次に地権者が建築行為をする際には必ず必要になるものですから、市が積極的に保存を要する土地であるのかどうかについて、調査すべきではないでしょうか。

 

今では、既に建設工事で破却されているかも知れませんし、今回の解体工事によって、更に破却されることがあるかも知れません。

 

市長の「文化財」に対する考え方が試されることになるかも知れません。そして何より、全国あるいは世界中の歴史学者からの非難に耐えうるだけの理論武装がされているのでしょうか。

 

破却されてしまってからでは、取り返しがつかないことだと思います。

 

 


武家屋敷復元計画について

9月19日のしが彦根新聞に9月定例会の個人質問などの記事が掲載されました。

 

私の登壇は火曜日(15日)でしたので、先日(7日?)に発売された週刊ポストの記事についての情報が入手できていませんでしたが、その記事によれば、テレビでもお馴染みの千田嘉弘奈良大学教授が、「復元的整備」という言葉を用いて、「実物に限りなく近いもの」も歓迎すべきだと述べられています。

 

市長は、「武家屋敷を整備するには忠実に復元する必要があるが、詳細な資料が残っていないため整備は困難だ」と答弁しました。

 

一方で、現在の桜場駐車場(特別史跡内)は以前の玄宮園の一部であったことから、庭園を復元したいようです。

 

玄宮園も武家屋敷も、いずれも大名・武士の暮らしの中で日々形が変わっていたはずで、「何をもって忠実」な復元なのかは明らかではありません。

 

前にも書きましたが、市長が世界遺産登録を目指す「目的」が明らかでないことが問題なのです。

 

「世界遺産に登録することだけ」が目的だとすれば、それは違うと思います。

 

日本中に数ある城下町ですが、本当の大名家の生きてきた場を示してこそ、衆目を集めることができ、その場に立つことで自動車もインターネットもなかった時代の職住近接の暮らしを見てもらうことに繋がるのだと思います。

 

井伊直弼公が桜田門外の変で斬首されたことが城下に届いたのは数日後であったとされています。そして、その報を受けて多分武家屋敷に住んでいた家臣たちは取るものも取りあえず、大急ぎで登城したのでしょう。まさに、職住近接です。

 

江戸で起きていたことも、その後の処理方法も事情の分からないままに450km離れた彦根との情報伝達がどのようにされたのかという点も興味が湧くことでしょう。

 

歴史を知りたい人々には、そのような色々な興味の源泉が目の前に現れるとすれば、それに勝ることはないのではないでしょうか。

 

何をもって歴史に「忠実」なのか、そして文化庁の方針転換の中で、変えてもよいものと変えてはならないものとをしっかりと考える必要があるのではないでしょうか。

 

 

 


天守の復元(週刊ポスト記事)

週刊ポストの記事(9月18・25日号)に、「城の復元ルール緩和で『なんちゃって天守閣』乱立の恐れ」というのが出ていました。

 

彦根城は天守が現存していて、国宝に指定され、大久保市長は世界遺産登録を目指しています。

 

文化財行政というのは、様々な制約の中、非常に難しい問題を抱えています。しかし、前にも書きましたが、特別史跡内であるにもかかわらず、鉄筋コンクリートの建物(表御殿=博物館)が建っています。「できる」方法を探したからに他なりません。

 

ところが、様々な史料がなければ再築できなかった天守が再建できるようになったそうです。

 

そこで、私が15日の個人質問で取り上げました武家屋敷の復元は、天守の復元よりもなお、ハードルが低くなったのではないでしょうか。

 

市長の答弁で、「正確な復元史料」がないと「できない」というのがありましたが、そうではなくなったという方向性です。

 

「できない」理由を取り上げるのでなく、「できる」方法を考え、どこまで復元するのかということを考える必要があると思うのです。

 

水を湛えた外濠があったのが市民会館前の状態だったわけですが、まさかそこまで復元することは現実的には無理なことですが、敷地に余裕があり、なおかつ現場の過去の状態を示す古図もあるわけですから、そのようにすることができないかと「検討する」ことも市長の大事な仕事ではないでしょうか。

 

そして、そのことが、自らが公約としている「世界遺産登録」に資するのか、あるいは駐車場に利用することがよいのか、どちらが歴史的意義があるのかを検討すべきでしょう。

 

統治機構としての大名家のありようを後世に伝えるには、どちらが大事なのでしょう。

 

そういった検討を、庁舎建築工事が始まったときから考えて、地権者との交渉の方法を練っておくべきなのではないでしょうか。

 

先を見ることはとても大事なのだと思います。

 

 

 

 

 


彦根城博物館友の会 講演会と実演、見学

11月4日。彦根城博物館友の会の事業に参加いたしました。

 

「彦根仏壇と七職」をテーマに、彦根仏壇事業協同組合の宮川孝昭理事長から、仏壇が様々な工程を経て作られていることの説明などをお聞かせ頂きました。

 

 

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仏壇そのものの歴史的背景と、仏壇の持つ意味合いを易しく説明いただきました。

 

寛永年間(1624〜1644)に、井伊家2代藩主の直孝公の世子であった直滋の指揮で七曲がりの造成が行われ、寛永21年(1644)に町人町としての七曲がりが完成しました。

 

その後の紆余曲折を経て、昭和50(1975)年に通商産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受け、今日に至っているとのことでした。

 

彦根仏壇は工部七職と呼ぶ、木地師、宮殿師、彫刻師、蒔絵師、錺り金具師、塗り師、金箔押師の共同作業によって作られ、最後に組み立てられて仕上がりとなるものです。その一部についても見学させていただきました。

 

 

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ちなみに、手に持っておられるのは一種の物差です。これで縦横奥行きなどを計って頭の中で設計するそうです。仏壇には設計図というののはないそうです。

 

 

 

 

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彦根を代表する産業を詳しく拝聴することができ、宮川理事長のお人柄ともどもに、ほっとするひとときでした。

 

会場の長久寺近くの旧佐々木住宅の中も見学させていただきました。この建物はかつての彦根城表御殿の一部であったとされ、これを日本生命第3代社長の弘世助三郎が購入して移築したものだそうです。その一室に「千鳥庵」という扁額が掛けられています。「千鳥ヶ丘」の名前の由来の一つかも知れません。もう少し調べてみる必要があるのかも知れません。

 

 

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彦根の文化的な奥行きを感じた一日でした。

 

 



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