市民会館敷地は、江戸時代はどのような土地だったのか?

9月15日の定例会には、市民会館解体に関する質問をする議員が3人(1番目の谷口議員、2番目の矢吹議員、そして4番目の私)続けて登壇します。

 

城下町を構成するのは、当然に城(天守や様々な櫓)であり、その城を守る濠であり、そして統治機能の要であった武士たちの住まいでした。もちろん、藩校(建物は別の場所に移築されていますが)の跡地も確認されていますし、御殿(政庁)も復元されています。

 

そのことを評して、昨年10月9日の朝日新聞には、そのような城下町の構成を最もよく残しているのが彦根城だとしています。

 

彦根市の指定文化財にはいくつもの足軽組屋敷が指定されています。考えると、中級武士たちと違って、足軽は日々の暮らしは自立せざるを得なくて、版籍奉還にあたって住まいが安堵された後もその場所で暮らし続けたのではないでしょうか。その結果、今日まで足軽屋敷が幾つも現存するのだと思います。素人の聞きかじりではなく、文化財担当の皆さんはしっかりと調査されているものと思います。

 

一方、中級武士の一部については藩政時代の屋敷名が明治初年の土地台帳に残っているものの、その多くが畑として登録され、藩政時代の屋敷とは形状も名前も違うことから、人手に渡り、建物が取り壊されたのではないかと考えられます。

 

もう一つ重要なことは、戦後のマラリア撲滅のために外濠のほとんどが埋め立てられたという事実です。GHQの指令によって、彦根の風土病とも言われたマラリアの発生源として環境が悪かった外濠を埋めたことです。市民会館前の県道敷はすべて外濠だったのです。

 

そして、辛うじて護国神社前にわずかに空堀として外濠の一部が残っていますが、これにも「土居」と呼ばれる土手が付属していたのです。その痕跡は、別の外濠跡でも見ることができます。

 

 

20200915003

 

 

20200915002

 

 

古図によれば土居の幅員は5.5間(約10m)とされていますから、ある程度の高さもあったのでしょう。

 

このようにして、歴史を踏まえた議論をすべきだと思います。

 

 



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