NHKクローズアップ現代「天国からの“お迎え”穏やかな看取りとは」
8月29日夜のNHKクローズアップ現代で、 「天国からの“お迎え” 穏やかな看取りとは」と題して、家庭での「看取り」に関係する番組がありました。http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3238.html
先日発行いたしました「KOKORO」第6号で、「あなたの老後はどこで?」と題し、松木診療所の松木明医師との対談を掲載させていただきました。
その中で、松木医師に「2025年の壁」についてお聞きしましたところ、「団塊の世代が75歳以上に到達する2025年には要介護者や病気の人が増えるとともに、現在の1.5倍の人が亡くなる、いわゆる大量死の時代が来ます」と仰っています。
つまり、現在は8割の人たちが病院で死んでいて、自宅で死ぬことができるのはたった2割の人でしかありません。しかし、50年前にはほとんどの人が自宅で家族に見守られて旅立っていっていたのに、です。
なぜそうなったのかといえば、医療機関が充実し、同時に例えば三世代同居という暮らし方が消えていったことにも原因があります。慢性期の死(松木先生は、「死」を2つに分類して、「慢性期の死」と「急性期の死」と区分して、いわば寿命が尽きるような死を「慢性期の死」、事故などで死ぬことを「急性期の死」と評されました)に接することが少なくなり、小さな子どもたちが「身内の死」に接することがなくなったためだということです。まして、病院では昔のように夜通しの付き添いができなくなったことにも、看取りの現場に接することができなくなったこともあります。
このようにして、「人の死」の現場から、徐々に遠ざかっているのが現代なのです。今、8割の人が病院で死を迎えていますが、それができなくなる時代が来るというのです。
つまり、病院は急性期の死を迎えなくてもすむように治療をするなど、とても慢性期の死に対処できるだけの余裕がなくなるであろうということです。ましてや、介護施設も同様に一杯の状態ですから、介護施設に入るということも難しいことになるのは当然の帰結とも言えます。となれば、私たちが死を迎える場所は自宅にならざるを得ません。
いま、医療の現場で「胃瘻(いろう)」について議論がされ続けています。「胃瘻」というのは、口からの食物摂取ができなくなった人(つまり嚥下機能が低下して食物が食道に行かずに気管から肺に入って、肺炎を起こして、死に至る可能性のある人)に対し、外部から胃に直接チューブを接続して、そこから生きるに充分な栄養価のある液体を流入させて栄養を与える施術ですが、これが本当に患者さんにとって幸せな最期を迎えるためのものであるのかどうか。このような施術で、本当に生きていると言えるのか、という議論です。
私の母も義父も胃瘻によって数年間生き続けました。母の場合には、このままであれば「あと2週間の命」と宣告され、それこそ即断即決という感じで「胃瘻をお願いします」となりました。そして5年延命したのです。その時の決断は本当に究極の選択でした。「このまま口から食物を与えていると、肺炎を起こしてしまいます。胃瘻という方法で肺炎の恐怖から逃れることができます」と言われれば、誰しも「胃瘻をして下さい」となるでしょう。
そのことが本当に患者さんにとって幸せだったのかどうかというのを今にして思えば、疑問符がつくことになります。
そのような経験と松木先生のお話のあとで、昨日の「天国からの“お迎え” 穏やかな看取りとは」を見たわけです。
実際に癌の終末期の人たちのインタビューもありましたし、そういった人たちへのアンケート調査結果も報告されていました。
主として在宅で終末期を迎えようとしている日とたちは、その41.7%が「お迎え」と言われる事象を体験(既に死んだ親やペットが現れたり、故郷の景色が見えたり)していて、その90%の人たちは穏やかな死を迎えたという数字が報告されていました。
「お迎え」なんて幻想だという人もあるでしょう(番組に登場された医師からは人間の「心理的自衛作用」でという分析もされていました)が、現実にそういった「お迎え」があった人たちが、結果、穏やかな死を迎えたというものであったとするならば、あながち否定しきれるものではありません。これは「慢性期の死」であるということも大きな要素であるわけで、誰しもが「自らの死」というものから目を逸らしているからこそ理解できない事象ではないでしょうか。
「KOKORO」第6号のメイン記事でもある「あなたの老後はどこで?」というタイトルにも、最初は「あなたは病院では死ねません」のように過激なタイトルを考えていました。政治に携わる者として余りにセンセーショナルなタイトルですから改めたのですが、実際にはそのように考えていたのです。
そうであれば、「病院の病床や介護施設を増やせばよいではないか」というご意見も出てくるでしょうが、ハードの部分を増やすには扱くの財政が更に悪化しますし、たとえハード面が充実しても、その業務を担う人たちが充分に整ってこその施設ですから、将来の人口減少社会を見通せば、ソフト・ハードの両面で無理だという結論しか導き出されないわけです。
そのためには、家族の結びつきも大切ですし、健康な間は何よりも健康を維持していくことに注意を払い、そして穏やかに死を迎える心の準備も必要なのではないでしょうか。
最後に、番組の中で、97歳で逝かれた方のひ孫さんが、逝かれた方の手を取って看取りをしている中で、カメラマンからの「ひいおばあちゃんは、どこへ行ったと思う?」との問いかけに、「私の心の中にいる」と答えた言葉が印象に残りました。
身近な人が目の前で逝くことに恐怖心を持つのではなく、人としての必然を迎えるのだということ、そしてそのことから目を逸らさずに生きていくことが見送った人への恩返しなのかも知れません。
現在「KOKORO」第6号は、彦根市の旧市内を中心に順次配布中です。まだこのHPにはアップしておりませんが、いずれアップをする予定です。PDF版をメールで送信することもできますので、ご希望の方はmariko@tujihan.co.jp
までメールをお寄せ下さい。お送りさせていただきます。
先日発行いたしました「KOKORO」第6号で、「あなたの老後はどこで?」と題し、松木診療所の松木明医師との対談を掲載させていただきました。
その中で、松木医師に「2025年の壁」についてお聞きしましたところ、「団塊の世代が75歳以上に到達する2025年には要介護者や病気の人が増えるとともに、現在の1.5倍の人が亡くなる、いわゆる大量死の時代が来ます」と仰っています。
つまり、現在は8割の人たちが病院で死んでいて、自宅で死ぬことができるのはたった2割の人でしかありません。しかし、50年前にはほとんどの人が自宅で家族に見守られて旅立っていっていたのに、です。
なぜそうなったのかといえば、医療機関が充実し、同時に例えば三世代同居という暮らし方が消えていったことにも原因があります。慢性期の死(松木先生は、「死」を2つに分類して、「慢性期の死」と「急性期の死」と区分して、いわば寿命が尽きるような死を「慢性期の死」、事故などで死ぬことを「急性期の死」と評されました)に接することが少なくなり、小さな子どもたちが「身内の死」に接することがなくなったためだということです。まして、病院では昔のように夜通しの付き添いができなくなったことにも、看取りの現場に接することができなくなったこともあります。
このようにして、「人の死」の現場から、徐々に遠ざかっているのが現代なのです。今、8割の人が病院で死を迎えていますが、それができなくなる時代が来るというのです。
つまり、病院は急性期の死を迎えなくてもすむように治療をするなど、とても慢性期の死に対処できるだけの余裕がなくなるであろうということです。ましてや、介護施設も同様に一杯の状態ですから、介護施設に入るということも難しいことになるのは当然の帰結とも言えます。となれば、私たちが死を迎える場所は自宅にならざるを得ません。
いま、医療の現場で「胃瘻(いろう)」について議論がされ続けています。「胃瘻」というのは、口からの食物摂取ができなくなった人(つまり嚥下機能が低下して食物が食道に行かずに気管から肺に入って、肺炎を起こして、死に至る可能性のある人)に対し、外部から胃に直接チューブを接続して、そこから生きるに充分な栄養価のある液体を流入させて栄養を与える施術ですが、これが本当に患者さんにとって幸せな最期を迎えるためのものであるのかどうか。このような施術で、本当に生きていると言えるのか、という議論です。
私の母も義父も胃瘻によって数年間生き続けました。母の場合には、このままであれば「あと2週間の命」と宣告され、それこそ即断即決という感じで「胃瘻をお願いします」となりました。そして5年延命したのです。その時の決断は本当に究極の選択でした。「このまま口から食物を与えていると、肺炎を起こしてしまいます。胃瘻という方法で肺炎の恐怖から逃れることができます」と言われれば、誰しも「胃瘻をして下さい」となるでしょう。
そのことが本当に患者さんにとって幸せだったのかどうかというのを今にして思えば、疑問符がつくことになります。
そのような経験と松木先生のお話のあとで、昨日の「天国からの“お迎え” 穏やかな看取りとは」を見たわけです。
実際に癌の終末期の人たちのインタビューもありましたし、そういった人たちへのアンケート調査結果も報告されていました。
主として在宅で終末期を迎えようとしている日とたちは、その41.7%が「お迎え」と言われる事象を体験(既に死んだ親やペットが現れたり、故郷の景色が見えたり)していて、その90%の人たちは穏やかな死を迎えたという数字が報告されていました。
「お迎え」なんて幻想だという人もあるでしょう(番組に登場された医師からは人間の「心理的自衛作用」でという分析もされていました)が、現実にそういった「お迎え」があった人たちが、結果、穏やかな死を迎えたというものであったとするならば、あながち否定しきれるものではありません。これは「慢性期の死」であるということも大きな要素であるわけで、誰しもが「自らの死」というものから目を逸らしているからこそ理解できない事象ではないでしょうか。
「KOKORO」第6号のメイン記事でもある「あなたの老後はどこで?」というタイトルにも、最初は「あなたは病院では死ねません」のように過激なタイトルを考えていました。政治に携わる者として余りにセンセーショナルなタイトルですから改めたのですが、実際にはそのように考えていたのです。
そうであれば、「病院の病床や介護施設を増やせばよいではないか」というご意見も出てくるでしょうが、ハードの部分を増やすには扱くの財政が更に悪化しますし、たとえハード面が充実しても、その業務を担う人たちが充分に整ってこその施設ですから、将来の人口減少社会を見通せば、ソフト・ハードの両面で無理だという結論しか導き出されないわけです。
そのためには、家族の結びつきも大切ですし、健康な間は何よりも健康を維持していくことに注意を払い、そして穏やかに死を迎える心の準備も必要なのではないでしょうか。
最後に、番組の中で、97歳で逝かれた方のひ孫さんが、逝かれた方の手を取って看取りをしている中で、カメラマンからの「ひいおばあちゃんは、どこへ行ったと思う?」との問いかけに、「私の心の中にいる」と答えた言葉が印象に残りました。
身近な人が目の前で逝くことに恐怖心を持つのではなく、人としての必然を迎えるのだということ、そしてそのことから目を逸らさずに生きていくことが見送った人への恩返しなのかも知れません。
現在「KOKORO」第6号は、彦根市の旧市内を中心に順次配布中です。まだこのHPにはアップしておりませんが、いずれアップをする予定です。PDF版をメールで送信することもできますので、ご希望の方はmariko@tujihan.co.jp
までメールをお寄せ下さい。お送りさせていただきます。