NPO法人スミス会議第11回総会

みずほ文化センターでの保育大会を終えて、急いで堀端のスミス記念堂へと急ぎました。記念堂ではスミス会議の総会が開かれていました。生憎、会議は到着までに終了しましたが、その後の交流会会場である源内さんでの昼食会には、遅れてではありますが参加できました。


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8月は雨の週末という印象でしたが、久しぶりの暑い夏を体感することができました。

総会では、かつて発刊した「彦根の近代化遺産マップ」が更新されたので、これを使ってサポーター会員の募集を始めることも決定しました。

彦根には明治以降の日本の近代化にあわせて様々な近代化に向けた建物などがあって、それらが現在も残っていて、それらを紹介する「近代化遺産マップ」をスミス記念堂再築前に作成いたしました。その後、いくつかの近代化遺産(和光会館や鐘紡彦根工場など)が姿を消して、スミス記念堂は再築されました。これらを紹介する地図と、その裏面にはそれぞれの近代化遺産の紹介がされています。このマップとともに、缶バッジとポストカードを製作して、サポーター会員へのお礼とさせていただくことになりました。


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スミス記念堂も再築後8年を経過して、あちこちに修繕を必要とするところが出てきました。

まだまだ市民からの認知度が低いこともあって、利活用が十分に行われているとはいえませんが、徐々にではありますが学校の校外授業や学会などでの利用も増えています。日本でも数少ない和風教会様式の建物を美しい姿のままに保存し、活用していくことで、パーシー・A・スミス牧師の彦根への熱い思いを、いつまでも残していきたいと強く願うものです。

サポーター会員についてのお問い合わせは、スミス会議の事務局(http://smith-meeting.com/)までご連絡下さい。また、スミス記念堂は冬期を除く毎週末(土曜日・日曜日)と祝日に開館しています。是非とも多くの皆さまにお越しいただきたいと思います。特に、堂内から彦根城天守閣を望む景観はとても素晴らしいものがあります。

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源内の店内では、いつの間にかスミス記念堂の子ども館長が2人になっていて(近藤事務局長のお子さんの2人目)、総会での事業報告の中で、そのお子さんたちと遊ぶことを目的として記念堂に来られる子どもたちもおられるということも報告されました。

子どもたちの旺盛な好奇心の中で、ノビノビと成長してくれることを願ってやみません。

さて、行政機関を揶揄する表現として「お役所仕事」という言葉が使われることがあります。これは、議員とともに市長をはじめとする役所の役職員全体で共有して肝に銘じておく必要のある言葉だと思います。特に、市民からの選挙という洗礼を共に受けた、議員・首長は、それぞれの選挙において公約した言葉に責任を負うべき立場であると考えます。

しかも、その公約において約束しなかった事柄は、既に議決され、あるいは粛々と進められてきた議論というものを尊重し、手戻りのない、迅速な事業執行を行う責任があると考える必要があります。今般の広島市の災害のように、15年以上前に議会で議論されたことがある土砂災害防止などは優先して行うべきものであると言えるでしょう。つまり、過去にも同じような災害が広島市では起こっていて、その時にも土砂災害への対応が議論されたようです。しかし、現実には同じような災害がまたもや発生してしまったということになるのです。

首長であれ、議員であれ、二元代表制というシステムの中で、民意を反映して粛々と執行していくのが首長の役割であり、議員の役割であると思います。有権者の判断を仰いでいないことを進めてはならないと思います。あるいは議会の決議や意見というものは軽くはないのです。首長の意見は議会というフィルターを通してこそ進めることができるものであって、議会という関門を回避していては独りよがりとの批判が必ずや出てくるに違いありません。

いよいよ1週間後には9月定例会が始まります。また、今回の議会からはインターネット中継が始まり、私たち議員も、市長をはじめとする役職員も市民の監視が強まることになります。

是非とも市民の皆さんは本会議の中継をご覧いただき、議員の主張、役職員の答弁、そして議会基本条例で認められることになった反問など、逐一をチェックしていただいて、「手戻り」のない市政運営に目を光らせていただきたいと思います。



彦根市保育大会

8月30日。稲枝のみずほ文化センターで開催された彦根市保育大会に福祉病院教育常任委員長として出席させていただきました。


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保育士の皆さんが、年に一度お集まりになられて、研鑽をされる機会であり、委員長として年々需要が高まっている保育の現場を知る機会となりました。

先日、東京に住む親戚と話していましたら、東京では保育園の定員に1名の余裕(たぶん、転勤か何かで退園しなければならない方がおられたのでしょう)ができて、募集をされたところ、数百人の応募があり、とても入園できるというものではないとのことでした。

彦根市でも同じように、毎年保育園が新設されています。一応、待機児童はいないと言われていますが、それでも新設された保育園も含めて定員割れが起こっていないそうです。

その現場で頑張っていただいている保育士の皆さんは、制度変更(認定子ども園への移行問題)などの渦中にあって、待遇改善などの課題があることは認識していますが、やはり、これからの時代を担ってくれる子どもたちを育てていただいているという認識のもと、委員会として、しっかりと問題意識を持った中で対応していく必要があると思いました。


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講演では、「発達障害」についてのお話しを聞くことができました。
いくつかの発達障害の症状についてもお話しいただき、それらを小さいころから親子ともどもに認識しておくことの必要性も知ることができました。


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会場のみずほ文化センターのロビーには、稲枝方面の自治会の提灯が飾られていて、地域の特性が感じられる場所だと実感いたしました。

講演が終わり、久しぶりの暑い週末をスミス記念堂へと急いで移動いたしました。

彦根市防災訓練

8月23日。毎年行われています彦根市の防災訓練があり、出席いたしました。今年の会場は彦根中学校でした。

数日前に発生した広島市での土砂災害のこともあり、参加者全員が緊張感のある中で、訓練が行われました。


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訓練では、消防署・消防団・市立病院をはじめ、様々な団体・組織からの参加があり、特に、災害協定を結んでいる事業所からも災害時の物品提供に関する応援なども行われました。

また、滋賀県の防災ヘリコプターも参加いたしました。


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訓練は午前8時から始まり、午前11時過ぎに終了しましたが、最近の降雨の状態を考えたとき、特に洪水などへの注意を怠りなく、準備をする必要があると痛感いたしました。


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そんな午前でしたが、午後には大雨警報が発令されるなどして、水路における急激な増水も経験したように、日常からの準備が必要であると感じました。


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この写真は急激な降雨の後、少し小降りになった時の千鳥ヶ丘会館裏の側溝の写真ですが、この水位はかなり収まってからのもので、最も多かったときには、溢れる寸前までいっていたようでした。

彦根市の千鳥ヶ丘公園からの排水がほとばしって流れ落ちている様を見ると、山の保水力がどうなっているのか、調べる必要があると思います。

広島市の土砂災害は花崗岩を成分とするマサドというサラサラの土砂が原因であるとも言われていますが、千鳥ヶ丘公園を構成する雨壺山の土質も心配になります。

地蔵盆(23日)の中で千鳥ヶ丘自治会長から水害の際の避難勧告などが出た際の自治会の対応を検討中であるということも聞くことができました。ただし、これは芹川が氾濫したときのことを想定しているとのことでしたが、住民一人ひとりが豪雨の際の土砂災害への心づもりも考える必要があると感じました。




ロビーに水槽

8月21日。彦根市立病院と議員との意見交換会が開催されました。

長年、市立病院内の検討会議で議論され、また議会でも何度も取り上げてきた病院の経営形態と災害拠点病院の取り組みに関する勉強会でした。

公営企業の経営形態は、地方公営企業法に基づいているところがほとんどです。そして地方公営企業法の全部の条項を適用するのか、一部を適用するのかの議論がされてきました。いわゆる「全部適用」か「一部適用」かという点が焦点でした。現在、彦根市立病院は「一部適用」が採用されているところです。

さて、帰りに病院のロビーを見てみると、巨大な水槽が置かれていて、海水魚が泳いでいました。幼稚園くらいのお子さんと小学校低学年くらいのお子さんが「あっ、クマノミだ」と指差しながら、とても喜んでいました。病院の待ち時間や会計の待ち時間に、またお見舞いに来られた方々の心を涼しげに癒してくれるでしょう。


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横1.8メートル、縦0.7メートル、奥行き0.6メートルの巨大なものでした。以前から、健康サポーターズ倶楽部でも話題になっていましたが、ようやく購入の運びとなりました。

入院患者さんや来院者の方たちに小さな安らぎをということで、病院の職員有志とサポーターズ倶楽部で費用を出し合って、できたものです。

健康サポーターズ倶楽部ではヒツジの世話や花壇の手入れなどを行っていますが、こちらの水槽は病院職員有志の方たちが手伝ってくださることになりました。

もちろん、これだけの水槽は、県内では初となりますし、全国的にも倉敷中央病院に次いでではないかと思います。

また、新しく配備されたDMAT車も見せていただきました。このDMAT車は県内の災害拠点病院に対して、県からの全額補助金で配備されたものです。


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彦根市立病院の患者さんに対する思いやりの発露だと思います。病気の治療の場であるのは当然ですが、健康を心がける場としての彦根市立病院の存在価値を高める活動に期待したいと思っています。











 

「柘榴坂の仇討」トークショー

8月18日午後。彦根城能舞台で、映画「柘榴坂の仇討」の主演・中井貴一さん、監督・若松節朗さん他によるトークショーが開かれました。

この映画は、以前にも書きましたが、桜田門外の変で散った井伊直弼の仇討ちをするために残った志村金吾という武士を描いた作品です。


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若松監督の彦根への思いとして、幼い頃にテレビで「花の生涯」を見て、井伊直弼というお殿様は素晴らしいと感動し、「この人のためなら死ねる」と思えるような上司に仕えるのは幸せであると感じて、いつか井伊直弼を映画化したいと思っていたと話され、井伊直弼の人間像を彦根から全国に発信してほしいと願っていたとも仰っていました。

彦根の印象はといえば、城のある、歴史の重みのある町で、女性がきれいだと仰っていました。

中井貴一さんが「人は映画を観る時 心を見る」と言ったことを聞き、それが心に残ったので、この人しかいないと思ったそうです。

プロデューサーの小滝祥平さんからは、今まで30箇所以上でロケをしてきたが、彦根市は温かい。「彦根を映画で盛り上げる会」の皆さんのエネルギーがとても嬉しい。歴史は勝者を描いていくが大義のためとはいえ、桜田門外の変のようなテロは許されるものではないとも仰いました。盛り上げる会を積極的に応援している一人として、とても嬉しい一言でした。

また、キャスティングにおいては、主人公の志村金吾には中井貴一しかいないと考えていた。金吾の妻役のセツには中井貴一さんが広末涼子さんでお願いしたいと言われ、そのように配役した。

中井さんは身長180センチ、相手役の阿部寛さんは188センチで、殺陣の場面では改めて2人の大きさを感じたと話されました。

中井貴一さんは終始控え気味でしたが、この映画を彦根から盛り上げていくとともに、混迷の世界情勢の中であってもこの映画のもつ意味をしっかりと受け止める必要があると感じたひとときでした。





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「平和」とは何か

8月15日。皆さんはこの日をどのように過ごされたでしょうか。

69年前に終結した太平洋戦争は、日本の敗戦という形で第二次世界大戦がピリオドを打ちました。枢軸国と言われた日独伊などのすべての戦争が終わったのです。

その後、日ソ冷戦の時代を経て、今日、世界のあちこちで紛争が頻発しています。また、かつては仮想敵国は具体的には上げられていなかったと記憶しますが、最近は討論番組などで具体的な名前が出てきています。確かに、それらの国々に不穏な動きがあるからであって、一概に否定できないことも事実であると思います。

だからといって、武力に対する武力の増強が「解」なのでしょうか。抑止力という名の下に、武力の増強が続けば、止め処なく軍事費の拡大が、多くの国で続いてしまうと思うのです。

経済の拡大に伴って、日本人が世界各地に赴き、時には彼の地で命を落とすこともあります。そして現実にアルジェリアをはじめとして尊い命が失われたことも事実です。

「経済の拡大」と書いてみて、それは第二次大戦前の日本の現実でもあったのではなかったのかと思えてなりません。大正末期から昭和のはじめの世界恐慌が一区切りを迎え、日本はつかの間の好景気の時代を迎えました。その中で、明治28年の日清戦争後の下関条約に基づいて割譲された台湾や、昭和6年の満州事変によって満州の支配権を持つことになって、それぞれ資源を求めて日本人が移住をし、結果として彼らを守るためにという大義を含めて、戦争の時代へと暴走したのではないかと思います。戦争には様々な要因があって、一括りに戦争の原因を特定することはできませんが、少なくとも現在の日本も同様に世界の各地へと経済活動を広げていて、それらの場所での日本人の救出というのが集団的自衛権の一つの理由ともされています。

このように考えると、この100年間の歴史をなぞっているように思うのは、私だけでしょうか。

8月15日の全国戦没者追悼式での安倍首相の式辞で、「不戦の誓い」や戦争におけるアジア諸国への「加害者責任」について言及しなかったと報じられています。

歴代首相が追悼式で繰り返してきたこれらの発言は、先のヒロシマ・ナガサキでの式辞のコピペ論争ではありませんが、日本の政策の方針転換以外の何ものでもありません。

歴史を学ぶということは、同じような過ちを繰り返さないということであるはずです。

一人の政治家の想いが支持政党内に広まり、そのことが説明もなく進んできた政策への「説明であった」と言い訳するのであれば、それは国民に対する説明責任を放棄したことに他なりません。

政権政党の中にある平和を標榜する政党ですら、声を上げないことの不満を感じるのは私だけでしょうか。

政治は誰のためにあるのかということを認識できないで、ただただ自分の想いだけで突っ走っていることの危うさをどうして与党内で言い出す人がいないのでしょうか。

経済には必ずやぶち当たる壁があるはずです。人口減少社会にあって、消費が低迷することは必然であり、そのことを理屈では分かっていても、拡大路線しか考えられないのであれば、危ういというしかありません。

今こそ、本当に国民のこと、世界の人々のことを考えて、言葉に出す勇気を持ってもらいたいと願わずにはおられません。



kokoro 

戦争とオリンピック

古代オリンピックの起源は、様々に語られています。

現代において、国威発揚の場としての近代オリンピックが誕生しました。生来、人間には闘争本能があり、それが個としての発揚であるのか、国としての発揚であるのかは別として、本来的には戦争を抑止しようとする戦争への一種の抑止力にしようという崇高な精神があったとも言われています。

「平和の祭典」という言葉もありました。そのような場において、残念ながらテロもありましたし、戦争の勃発によって中止のやむなきに至った大会もありましたが、いずれにしても、人間の闘争本能を、戦争という悲惨な事態から回避する手段でもあると思いたいものです。

今日、8月15日は日本人にとって何よりも大切な日であると思いたいのです。

スポーツにおいて、攻撃は最大の防御であるという言葉があります。防衛するためには攻撃をする。このことによって、相手に攻撃を続けようという意欲を喪失させ、失点を最小限度で収めようとする考え方です。

これと同じことが、今の日本で始まろうとしているのではないかと危惧しています。武器輸出三原則が防衛装備移転三原則に言い換えられ、集団的自衛権の解釈について、国民への問いかけもなく進められてきました。

人間は、歴史を振り返ることによって過去の過ちから学ぶことのできる生物であると思いたいのです。

いま、連日のように戦争体験を、最後の叫びとして新聞紙上に寄稿する人々が増えてきました。もちろん、新聞社サイドの編集方針もあって、このような方針の新聞と、そうではない、周辺国が武力の増強をしているからこそ防衛力を高めなければならないという方針の新聞の2つの意見があって然るべきではあります。しかし、戦争の惨禍を、身をもって体験した人たちの最後の叫びに耳を傾けなければならないのではないでしょうか。

昨夜(8月14日)も、終戦の詔勅を撤回させようとした旧日本陸軍の鈴木貫太郎首相への襲撃についての報道がされました。天皇の大権をもってしても、軍部の独走に歯止めがかからなかったという厳然たる事実から目を逸らせてはいけないのではないでしょうか。そして万が一鈴木貫太郎首相が暗殺されていたとすれば、今日という8月15日が終戦の日にならなかったかも知れないのです。

私たちは、今まで多くを語らなかったこうした庶民の悲痛な叫びに真摯に耳を傾けるべきであって、そのことの解決のためには外交(http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/page24_000037.html
)努力によるべきではないでしょうか。TPPなどの懸案事項も山積していますが、近隣諸国へは訪問せず、訪問した諸外国においても、積極的に世界各地で続いている紛争解決への努力がされているとは、どうしても思えないのです。平和裡に紛争を解決に導くための積極的な努力こそが「積極的平和主義」ではないでしょうか。

国会議員の90%以上が戦後派と言われる時代です。戦争で辛酸をなめた人たちの言葉に耳を傾ける日。それが8月15日だと強く心に響く日だと思います。


kokoro


 

NHKスペシャル

8月14日夜10時からのNHKスペシャルをご覧いただきましたでしょうか。私も、夫から見学結果を伝え聞いたことが、ありありと目の前に、そして番組編集の力から取材内容が手に取るように知ることができました。


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番組内で紹介されたB29の絵日誌です。小学校5年生の子の感性と、書いてよいことといけないことを感じ取っていたことも、よく分かりました。

でも、80歳を超えた当時の小学校5年生の皆さんが、このように元気に証言していただけるのも、あと何年かと思うと、今の社会における集団的自衛権問題など、政権の行うべき方向性が正しいのかどうかと、大いに疑問が湧いてきます。

外交に力を注ぐことと、抑止力という名の防衛力というものが、どれだけの違いをもっているのか、しっかりと考えなければならないと思います。

抑止力を高めることによって仮想敵国の攻撃力は一層高まり、その高度化した攻撃力のために更に防衛装備を強化する。いたちごっこのように思われます。

確かに、一国だけが非武装をすることによって物事が解決しないことには一定の理解を示すことはできますが、エスカレートしていくことが恐ろしいと感じるのは、私だけではないはずです。

日本が今、歩みだそうとしている政治姿勢は、75年前の状況と似ている部分があるのではないでしょうか。

戦争を体験した、あるいは戦火に追われた経験のある人々の言葉が伝えられる今だからこそ、政治はその悲惨な時代を生き抜いた人たちの体験の重みをしっかりと胸に刻み込まなければならないのではないでしょうか。

そのための外交努力をする必要があるのと、そのための「教育」が全世界の政治を司る人たちに必要なのではないでしょうか。

事実をねじ曲げてすら自国が正しいと強弁したり、宗教的背景の中で抑圧をする人たちを減らしていく努力こそが必要であり、そういった観点からすれば、その努力をうち捨ててしまっていることに、悲しさを覚えます。

今日、8月15日はもう一度原点に立ち返って考える機会だと強く実感します。





 

1945年8月13日

今から69年前。1945年8月13日は、どんな社会だったのでしょうか。中1日をおいて、8月15日正午には玉音放送が全国に流れ、太平洋戦争が終結しました。

ウィキペディアの説明には、次のように書かれています。


1945年(昭和20年)8月14日
、日本は御前会議において内閣総理大臣・鈴木貫太郎が昭和天皇の判断を仰ぎポツダム宣言の受諾を決定した(いわゆる聖断)。ポツダム宣言は「全日本国軍隊ノ無条件降伏」(第13条)などを定めていたため、その受諾は太平洋戦争(大東亜戦争)において日本が降伏することを意味した。御前会議での決定を受けて同日夜、詔書案が閣議にかけられ若干の修正を加えて文言を確定した。詔書案はそのまま昭和天皇によって裁可され、終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)として発布された。この詔書は、天皇大権に基づいてポツダム宣言の受諾に関する勅旨を国民に宣布する文書である。ポツダム宣言受諾に関する詔書が発布されたことは、中立国のスイス及びスウェーデン駐在の日本公使館を通じて連合国側に伝えられた。

昭和天皇は詔書を朗読してレコード盤に録音させ、翌15日正午よりラジオ放送により国民に詔書の内容を広く告げることとした。この玉音放送は法制上の効力を特に持つものではないが、天皇が敗戦の事実を直接国民に伝え、これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていたと言える。当時より、敗戦の象徴的事象として考えられてきた。鈴木貫太郎以下による御前会議の後も陸軍の一部には徹底抗戦を唱え、クーデターを意図し放送用の録音盤を実力で奪取しようとする動きがあったが、失敗に終わった(宮城事件、録音盤事件)。

前日にはあらかじめ「15日正午より重大発表あり」という旨の報道があり、また当日朝にはそれが天皇自ら行う放送であり、「正午には必ず国民はこれを聴くように」との注意が行われた。当時は電力事情が悪く間欠送電となっている地域もあったが、特別に全国で送電されることになっていた。また、当日の朝刊は放送終了後の午後に配達される特別措置が採られた。

放送は正午に開始された。初めに日本放送協会の放送員(アナウンサー)・和田信賢によるアナウンスがあり、聴衆に起立を求めた。続いて情報局総裁・下村宏が天皇自らの勅語朗読であることを説明し、君が代の演奏が放送された。その後4分あまり、天皇による勅語の朗読が放送された。再度君が代の演奏、続いて「終戦の詔書をうけての内閣告諭」等の補足的文書のアナウンスが行われた。


つまり、8月13日という日は、政治的決断がされる前日ということになります。

そして、当時の国民には何も知らされないまま、15日の正午に直立してこの放送を聞くようにとの指示が出されたのみで、(心の中では敗色濃厚であるとは感じつつも)戦争に負けるとは思っていなかったのではないかと思います。「何も知らされない」ままというのは、本当に恐いことです。

これは、今の時代にも相通じるところがあります。本当に真意を伝えている政治であるのかどうかということです。

8月12日の滋賀県議会で2つの意見書案が否決となりました。1つは集団的自衛権の行使容認の憲法解釈の変更を行わないよう求める意見書案であり、もう1つは容認反対の意見書案です。また、高浜・大飯両原発の再稼働中止を求める意見書の提出を求める意見書の提出を求めた請願についても不採択とされました。

集団的自衛権に関して、「一内閣の考えによる解釈変更は国民の理解が得がたい」と訴えたのですが、「国会で70人の議員から質問され説明した」と自公系が反論したということです。果たして、「説明した」という点について、真意を説明したのかどうかです。世論調査でも多くの報道機関の結果では「十分な説明がされていない」とする声が多数出ています。

「説明はした」のでしょうが、質問した内容に真摯に向き合って答弁されたのかというと、決してそうではありませんでした。まさに敗色濃厚であった戦争を国民に知らしめなかったということに相通じているという、69年前と同様なのではないでしょうか。

本音を語らずに、建前だけを答える、あるいは本質を説明していないというこの政権の姿勢というものは、決して許されるものではないと思います。

世界中で紛争が続いています。ウクライナ、パレスチナ、イラク等々。その他にもいくつかの国では少数民族抑圧の事象も少なくありません。

そのようなきな臭い「今」であるからこそ、君子危うきに近寄らずというように、火中の栗を拾いに入らず、対話による外交からのアプローチというものが大切なのではないでしょうか。「外交」というものは、海外に出掛けていくことだけが「外交」ではないはずです。そして何よりも、国民の生活の安定があればこその「外交」であるべきであって、その余裕がないのがアメリカの現実です。多くの若い命がアフガンなどで散ってしまったという現実と、景気低迷による財政状況の悪化から、「世界の警察官」の立場をある意味でアメリカは放棄した中、結局は世界の覇権を握りたい国が代わりに台頭しつつあるわけですが、武力を背景とした動きを許してはならないと強く思います。「抑止力」という言葉の持つ危うさを、もう一度見つめ直す政治に転換してもらいたいと思います。


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NHKスペシャル(8月14日)「少女たちの戦争〜197枚の学級絵日誌〜」 

8月14日(明日)午後10時からのNHKスペシャルで、先日、夫に見てもらってきました瀬田国民学校(当時)の絵日記が番組になって紹介されます。

当時の世相を含めて、子どもたちですら戦争の激化というものを感じていたこと。そして、ブログにも書きましたが、「書いてよいこと」と「書いてはいけないこと」を感じていたことが伝えられるそうです。

私たちは今、自由に発言ができる時代にいますが、そのことをしっかりと認識した中で、積極的に「平和」というものへの感謝と、平和な社会を築き上げるためになすべきことをもう一度、考えていきたいと思います。

是非ともご覧いただきたいと思います。


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