彦根市とマラリア

彦根市民会館の解体に関連して、外濠について書きましたが、その中に「彦根とマラリア」について少し触れました。

 

マラリアは、彦根市の風土病と呼ばれていました。インターネットで「彦根市 マラリア」で検索すると多くの論文や記事がたくさん見つかります。

 

マラリアは蚊が媒介する病気で、ウィキペディアにも、「1959年の彦根市の事例を最後に土着マラリアは消滅した」と「彦根市」が出てきます。「なぜ彦根市なの?」という疑問が湧きますが、実はその原因の一つが彦根城の外濠だったのです。

 

内濠や中濠は比較的美しい状態で維持されていたようですが、外濠は市民生活に直結する場所だったからか、生活の中で出てくる塵芥が投げ込まれたりして、悪臭も酷かったようです。

 

その結果、濠の幅が狭くなり、なおかつ、もとから人工の水路だったこともあって、水の淀みも激しかったようです。

 

そのような濠に蚊が生息し、その蚊がマラリアを媒介したとされています。

 

戦後、GHQの指令によってマラリア撲滅のため、外濠が埋め立てられたのです。

 

ということで、各種の文書が出ていますので、正しい情報はそちらで検索して下さい。

 

今にして思えば、大変に惜しいことだったと思います。しかし、健康という面ではマラリア撲滅が最大の使命だったのでしょうから、マラリアと同時に外濠が消滅してしまったということになります。

 

さて、そのような歴史的な経過を持つ彦根城ですが、60年前の事実とともに、400年前の人々の暮らしにも想いが馳せられるのであれば、歴史的な意味を持つために、少しでも外濠が復元できればよいのではないでしょうか。

 

 

 


彦根東高校新聞部が市立病院にエールを

9月17日夕方と夜のNHK滋賀ローカルニュースで、彦根東高校新聞部が市立病院を訪れ、全部活生徒たちからのメッセージボードをファイルにして、市立病院の医療従事者に届けたということが報道されました。

 

病院長は、「とても励みになった」と、ファイルをすべての医療従事者に回覧すると応じておられました。

 

先日の本会議では、新型コロナウイルス感染症の影響で、昨年4〜7月は1.5億円の黒字だったのが、今年の同期では3.7億円の赤字で、年間では16億円の赤字が見込まれるという答弁がありました。国への要望を続けているようですが、少なからぬ赤字決算は覚悟しなければならないでしょう。

 

市立病院を地域の拠点病院として維持していくためには、全市民の応援と協力が必要です。

 

 


天守の復元(週刊ポスト記事)

週刊ポストの記事(9月18・25日号)に、「城の復元ルール緩和で『なんちゃって天守閣』乱立の恐れ」というのが出ていました。

 

彦根城は天守が現存していて、国宝に指定され、大久保市長は世界遺産登録を目指しています。

 

文化財行政というのは、様々な制約の中、非常に難しい問題を抱えています。しかし、前にも書きましたが、特別史跡内であるにもかかわらず、鉄筋コンクリートの建物(表御殿=博物館)が建っています。「できる」方法を探したからに他なりません。

 

ところが、様々な史料がなければ再築できなかった天守が再建できるようになったそうです。

 

そこで、私が15日の個人質問で取り上げました武家屋敷の復元は、天守の復元よりもなお、ハードルが低くなったのではないでしょうか。

 

市長の答弁で、「正確な復元史料」がないと「できない」というのがありましたが、そうではなくなったという方向性です。

 

「できない」理由を取り上げるのでなく、「できる」方法を考え、どこまで復元するのかということを考える必要があると思うのです。

 

水を湛えた外濠があったのが市民会館前の状態だったわけですが、まさかそこまで復元することは現実的には無理なことですが、敷地に余裕があり、なおかつ現場の過去の状態を示す古図もあるわけですから、そのようにすることができないかと「検討する」ことも市長の大事な仕事ではないでしょうか。

 

そして、そのことが、自らが公約としている「世界遺産登録」に資するのか、あるいは駐車場に利用することがよいのか、どちらが歴史的意義があるのかを検討すべきでしょう。

 

統治機構としての大名家のありようを後世に伝えるには、どちらが大事なのでしょう。

 

そういった検討を、庁舎建築工事が始まったときから考えて、地権者との交渉の方法を練っておくべきなのではないでしょうか。

 

先を見ることはとても大事なのだと思います。

 

 

 

 

 


個人質問への答弁(9月15日)

令和2年9月定例会での個人質問が終了しました。

 

発言開始(13:53)から、ちょうど1時間の14:53に終了しました。発言の制限時間(30分)を僅か数秒残しただけでした。

 

カタログチョイスの質問と職員の公益通報については想定どおりの答弁で順調に進みました。

 

さて、ここでは3項目めである市民会館解体について、少し書いてみたいと思います。

 

この日の登壇者では、3人が市民会館の解体について発言しました。最初に登壇しました谷口議員の質問の中で、私の答弁の呼び水となる答弁がありました。質問は、この敷地での法令上の質問でした。

 

建築基準法上の制限として、第一種中高層住居専用地域であること。従って、一定規模での飲食・物販の建物が認められることが明らかになりました。ところが、帰宅後に「彦根まっぷ」で都市計画について改めて調べましたところ、市民会館の敷地は、「都市機能誘導区域」に含まれていることが明らかになりました。

 

さて、このような前提のもと、矢吹議員から、駐車場にしてはどうかという提案がありました。私はこの発言通告書を見て、私なりの考えを少しだけ示しておかなければならないと思いましたので、考えの一端を発表しました。

 

まず、市民会館跡地については、確かに「市民会館」建設のために地権者である滋賀県護国神社から借り受けているものです。このことは、登記簿や、公文書公開請求で入手しました賃貸借契約書から明らかになっていました。ただし、鉄筋コンクリートの建物敷地ですから、本来、1年ごとの契約であることの意味を追及するつもりでした。土地の賃貸借契約は旧借地法が借地借家法に衣替えをして、貸主の権利が強くなったとされています。今回の解体工事でさえ、(議会の議決が必要ではあるものの)純粋な解体工事だけでも約1年弱の工期が必要になると見込まれています。賃貸借契約に「6ヶ月前の予告による」中途解約条項があるわけで、万一、貸主が契約期間中や(1年の)期間満了時に更新をしないと通告してきた場合のリスクを考えているのかどうかです。借主としての権利を盤石にするためには、6ヶ月という予告期間だろうかというものです。更には、堅固な建物の敷地についての契約期間は最低でも30年であるという民法上の規定との整合性について、明確な答弁が求められるものではないでしょうか。

 

契約についてのことを、それ以上に追及していては時間が足りなくなりますから、そこで終わりましたが、ただ単に「会計年度」に従ったというのは、問題意識が希薄であると言わざるを得ません。

 

次に、土地の返却の問題です。契約書上、市民会館がなくなれば土地の返却をすることは当然のことです。しかし、この土地が持つ歴史的な観点から、このような一団の土地が(彦根市の支配下で)なくなってしまうことで考えられるデメリットを想像できないのでしょうか。

 

確かに、一旦は土地の返却をする義務は生じます。しかし、並行して、この土地の持つ価値を考えたときに、どうすべきか(どう活用できるのか)を考えるべきなのは、まちづくりの基本的な方針を考えるべき行政の知恵の出しどころだと思うのです。地権者がまちづくりの観点で持ち出すアイデアと、行政が持ち出すアイデアとを比較したときに、どちらがイニシアティブを持つかによって、その後の運用における差が出てくることは明らかです。

 

いま、私は行政の持つべきイニシアティブをどのようにとるべきかという観点から、この記事を書いています。

 

このようなことは、本庁舎の増築工事が本決まりとなったときから考えておくべきことがらだったはずです。そのことをおざなりにして、漫然と解体工事をすることだけしか考えていなかったとすれば、まちづくりの司令塔が単視眼的であることの証左ではないでしょうか。

 

「市民会館を解体する」→「土地を返却する必要がある」→「でも、城下町という彦根の中で、この土地が持つポテンシャルとして、活用方法はないのだろうか」という考えが出てきて然るべきです。

 

「できないことを捜す」のではなく、「できる方法を見つけ出す」のが、夢のあるトップが発想すべきことだと思うのです。

 

市長は私の提案に対して、次のような「できない」理由を挙げました。

「武家屋敷を復元するための資料に乏しい」と。

 

私は歴史の専門家ではありませんし、建築家でもありません。しかし、彦根のまちを愛する気持ちは人後に劣らないと自負しています。

 

もしも、武家屋敷を復元できないというのであれば、彦根城博物館(表御殿)はどうして特別史跡内に鉄筋コンクリート造でできたのでしょう? そこには「熱意」があったからではないでしょうか。

 

市長が公約で「世界遺産登録」を掲げていました。

 

市長の答弁では、世界遺産の対象を極々限定して「特別史跡」内を対象にしているから、バッファゾーンである武家屋敷などがあった区域は「関係ない」かのように受け取れるものでした。それならばなぜ足軽組屋敷を多く、市の指定文化財に登録したのでしょう。

 

藩主がいて、家老がいて、そして中級武士、下級武士がいて、足軽、町人がいてこそ「城下町」が成り立っていたのではないでしょうか。江戸時代の統治機能が残されているというのであれば、その一部を示す中級武士の屋敷群が目の前に(現実に)存在することが、いかに来訪者に感銘を与えることでしょう。その屋敷が濠(外濠)の内側にあって、そこは町人の暮らす町とは土居によって明確に区分され、城内で一旦緩急あれば駆け足で城内に赴くという世界があれば、どれだけのリアリティを人の心に訴えられるでしょう。

 

文化財担当の職員の中に、「あそこに武家屋敷が復元できればよいのに」と思う人はいないのでしょうか? それでこそ、文化財を担当したいと願って市職員になった人であれば、200年以上前の彦根を復旧したいと思うのではないでしょうか。そのことが「できる方法」を探し出すことも大きな仕事だと思うのです。それこそが「やりがいのある仕事」ではないでしょうか。私はその目を摘んでしまいたくないのです。

 

次の図はそのための宝の入口へ誘う走り書きです。

 

 

20200916001

 

数日後から、彦根市HPの市議会>映像配信(現在は本庁舎工事中のため音声のみ)でお聞き下さい。

 

 

 

 

 


市民会館敷地は、江戸時代はどのような土地だったのか?

9月15日の定例会には、市民会館解体に関する質問をする議員が3人(1番目の谷口議員、2番目の矢吹議員、そして4番目の私)続けて登壇します。

 

城下町を構成するのは、当然に城(天守や様々な櫓)であり、その城を守る濠であり、そして統治機能の要であった武士たちの住まいでした。もちろん、藩校(建物は別の場所に移築されていますが)の跡地も確認されていますし、御殿(政庁)も復元されています。

 

そのことを評して、昨年10月9日の朝日新聞には、そのような城下町の構成を最もよく残しているのが彦根城だとしています。

 

彦根市の指定文化財にはいくつもの足軽組屋敷が指定されています。考えると、中級武士たちと違って、足軽は日々の暮らしは自立せざるを得なくて、版籍奉還にあたって住まいが安堵された後もその場所で暮らし続けたのではないでしょうか。その結果、今日まで足軽屋敷が幾つも現存するのだと思います。素人の聞きかじりではなく、文化財担当の皆さんはしっかりと調査されているものと思います。

 

一方、中級武士の一部については藩政時代の屋敷名が明治初年の土地台帳に残っているものの、その多くが畑として登録され、藩政時代の屋敷とは形状も名前も違うことから、人手に渡り、建物が取り壊されたのではないかと考えられます。

 

もう一つ重要なことは、戦後のマラリア撲滅のために外濠のほとんどが埋め立てられたという事実です。GHQの指令によって、彦根の風土病とも言われたマラリアの発生源として環境が悪かった外濠を埋めたことです。市民会館前の県道敷はすべて外濠だったのです。

 

そして、辛うじて護国神社前にわずかに空堀として外濠の一部が残っていますが、これにも「土居」と呼ばれる土手が付属していたのです。その痕跡は、別の外濠跡でも見ることができます。

 

 

20200915003

 

 

20200915002

 

 

古図によれば土居の幅員は5.5間(約10m)とされていますから、ある程度の高さもあったのでしょう。

 

このようにして、歴史を踏まえた議論をすべきだと思います。

 

 



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